2003年08月11日 月曜日 14:10:41


紹介 芥川竜之介氏と「利己的 DNA プログラム」(本能)の戦略


投稿者:ハムのケンちゃん(筆者)  投稿日:2003年08月11日 月曜日 14:11:06
筆者は正直な所文学少年でも無かったから芥川氏の作品はほんの少ししか読んでいない。もっと真面目に多感な頃読んでおけばよかったと思っています。

 所で最近この↓のイントロを読んで唖然としたのですが、実に多くの女性に関わって生きてきた事が分かる(我々も多少の差があるも同様か)。皆様ご苦労様と言いたい。

 遺伝子のシャッフルによる多様性あふれる”「利己的DNAプログラム」(本能)の戦略”に接しながらの人生であるが、遺伝子、DNA/RNA、進化のからくりが全く見えない時代にあって、彼(芥川氏)の心の深部・肉体の苦悩は、作家として成功してきたその感受性の良さから言って非常に大きかったものと想像できます。 

 もし芥川氏がこのホームページを生前読むことが出来たなら、彼に関わる人間の本流である”女性の裏側にある「利己的DNAプログラム」(本能)の戦略”を理解して、結果自殺をしないですんだかもしれないと思うと悔やまれる。

自殺。動機は「将来に対する唯ぼんやりした不安」であった(↓記事参照)とされている。が、筆者のみる所、この”本能の戦略”への対抗軸を確立、保持できなかった所に彼の悲劇性が表れるいるように思える。

 従って彼の作品のなかで中心的な役割を果たす女性達の言動/行動は「あの芥川氏さえどうしても解けなかった、”本能の戦略”」そのものであり、後世に生きる我々への”巨大な謎解き”として我々の前に立ちはだかっていると言えるでしょう。

 日本人/世界の人が本HPを使ってこの”巨大な謎解き”に成功する事を確信する次第であります。

 以上、 以下↓は参考資料です。時間があればお読みください

出典:http://www.10daysbook.com/html/ebi/special/special0080.html 10Days Book
第80号 2003.02.21 芥川龍之介 作品

4人の母
<実母> 
新原ふく
竜之介の出生わずか7ヶ月にして突然の発狂。前年の長女ハツの死、兄道徳の死、そして父新原敏三、彼はまじめで律儀な人であったが同時に癇の強い気性の激しい人であったといわれているが、そういったものに対する心痛が故のことだろうか。彼女はきわめて小心な、内気な女性であったという。竜之介が10歳の時に死去。
<義母> 
芥川ふゆ
ふくの妹。ふくの死後、新原家へ後妻として入った。それを条件に、竜之介は正式に芥川家と養子縁組を結ぶ。
明治37年(1904年)、彼が12歳の時である。
<養母> 
芥川儔
竜之介が生後9ヶ月目にして引き取られ、12歳の時、正式に養子となる。養父芥川道章はふくの実兄。
<伯母> 
芥川ふき
芥川家は代々、江戸城のお数寄屋坊主を務めた旧家で、江戸の文人趣味が濃く、文学、美術、演劇を好む気風があった。
とくに伯母ふきは芸術的素質にあふれ、竜之介にとって特に影響を与えた人物である。しかし彼女は、情緒的にはしばしばヒステリーを起こし、性格的にもかなり偏りがあったという。

竜之介をめぐる女達
<初恋> 
吉田弥生
竜之介の初恋の相手として知られている。彼と同じ明治25年生まれ。青山女子学院英文学科卒。弥生の養父と竜之介の実父とが顔見知りであり、それが縁で2人は親しい間柄となる。きわめて聡明な女性だったと言われている。
しかし、彼女が士族の出ではないこと、出生(私生児)にまつわる問題、そして芥川家、特に伯母ふきの大反対で結婚を断念してしまう。このことはのちの彼の思想に大きく影響する。
養家の反対によって吉田弥生との仲を引き裂かれた竜之介は、人間のエゴを目の当たり にする。
破局という結果が彼に大きな挫折感を与えるが、それがのちに創作という形に 託され、書かれた作品が『羅生門』である。
その後文との結婚にまで至る時期は、夏目漱石の激賞を受けた『鼻』を始め、数々の 作品を生み出している
<妻> 
塚本文
竜之介の妻。彼の親友の姪にあたる。大正7年(1918年)竜之介26歳の時、当時まだ17歳の文と結婚。それ以前に彼が宛てた恋文には、"文ちゃん"という語りかけで愛情深い手紙を送っている。
<愁人> 
秀しげ子
女流歌人。大正8年、岩野泡鳴が開いていた「十日会」の席で初めて出会う。竜之介は彼女を「愁人」と呼び親しく交わっていたが、次第に彼女の利己主義に嫌悪感を抱くようになる。のちの彼の作品、『或阿呆の一生』の'狂人の娘'、『歯車』の'復讐の神'として出てくる彼女は、晩年まで彼につきまとう。
<プラトニック> 
片山広子
大正13年の夏、竜之介が避暑と仕事をかねて軽井沢へ出かけた際に出会った女性。アイルランド文学研究家として、また歌人として知られている。しかし彼女との関係はあくまでプラトニックなものであった。
<心中>
平松麻素子
妻文の長年の友人。昭和2年(1927年)4月、帝国ホテルで彼女と心中する計画があったが、未遂に終わる。
その年(1927年)の7月、田端の自宅で睡眠薬を致死量あおいで自殺。動機は「将来に対する唯ぼんやりした不安」であったとされている。

竜之介は幼少の頃から身体が弱く、本好きで空想癖の強い子供であった。
繊細な少年が育つにはあまりに複雑な環境ではなかっただろうか。
本当の母の愛情を知らずに育った竜之介の想いが、彼をめぐる女性たちとの関係 や作品の中に込められているように思われる。

参考文献
「解体全書」 リクルート 
「芥川龍之介」 著/吉田和明 褐サ代書館


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